消えたアベック―麺子さんと汁夫さんの行方
高橋留美子の初期代表作に『うる星やつら』がある。
通常の少年サンデーコミックス単行本にして、全34巻。
このマンガの連載初期に、「麺子さんと汁夫さん」という脇キャラが出てくる。
麺子さんと汁夫さんは、20代の社会人同士と思しきアベックで、数話に1コマか2コマしか登場しないが、公園や墓場の木陰などでいちゃついてるところを、いつも主人公の諸星あたるやその他のキャラに邪魔されてしまうのである。
この麺子さん&汁夫さんは、10巻を超えた頃から登場しなくなってしまった。
『うる星やつら』の連載開始が1978年で、10巻に収録されているエピソードが連載されていたのは1981年頃である。
先ほど、麺子さんと汁夫さんは「アベックである」と書いたが、麺子さんと汁夫さんがいなくなったのは、この「アベック」という言葉の消滅と関係しているのではないかと思う。
清水義範の『ことばの国』という短編集(初版1990年)には、「アベック」という言葉が廃語として紹介されている。
ちなみに、20代以下の人だと「こんな言葉、聞いたこともない」なんてことがあるかもしれないので、一応解説すると、これは特別な関係にある1組の男女、すなわち恋人同士を表す言葉。要するにカップルのことで、元はフランス語の「~と一緒に」という意味の前置詞である(英語の"with"に相当)。
この作品の中で、清水氏はアベックについて曰く、
「(アベックというのは)必ずいちゃいちゃするのである。アベックといえば、いちゃいちゃすると、決まっているのだ。かつて一組の恋人同士というのは、そういうけしからんものだったのだ。」
確かに、麺子さんと汁夫さんはいつもいちゃついている。
というより、静かにいちゃつける場所をいつも探しているようだ。
そして静かにいちゃつける場所を見つけるのに、とても苦労しているのである。
喫茶店では、
「麺子さん ぼかあ、ぼかあ、以前からきみを…」
「汁夫さん わたし、だって…」
と、言葉少なに遠慮がちに愛を語り合う。
墓場の木陰では、ひしと抱き合いつつ、
「ここならだれも来ないね 麺子さん!」
「ええ、汁夫さん!」
誰にも邪魔されないかとスキー場の木の上に登っていたら、あたるにぶつかられて振り落とされて、
「汁夫さん… ここならだれもこないと思ったのに…」
「また別の木に登ろう 麺子さん…」
と手を握り合う。
ここで、「あれ」と思いませんか?
いちゃつきたかったら、どっちかの家に行ったらいいじゃない。
もしどちらも家族と同居しているなら、ホテルがあるし。
そう。これが、麺子さんと汁夫さんのようなアベックが存在できなくなった原因。
「アベック」の貞操観念は、現代のカップルとは違うのです。
…と思う。
私も、本物の「アベック」が存在していた頃というのは、実際は知らないのだけれど。
この頃には、まだまだ処女性ということに価値が置かれていて、結婚に際して生娘でなかったら、初夜に処女を装うのが必要なんてこともあったらしい。
そういえば、小学校のとき読んだ性教育の本にも、婚前交渉に対してあまり肯定的な書き方をされていなかった記憶がある。
だから、麺子さんも堂々と汁夫さんのアパートに遊びに行くというわけにはいかなかったのだろう。
そんなところを人に見られたら、ふしだらな女だと思われてしまうかもしれない。
ラブホテルだって、この頃はまだ「連れ込み宿」的な淫靡なイメージがあったと思う。
行けたところで、せいぜいが同伴喫茶くらいだろうか。
この同伴喫茶も、今のカップル喫茶とは全く違うものだと思って良い。
当時は勿論、「いかがわしい店」という世間的認識であり、学生がこんなところに行くとなると、「不良」なんて思われたかもしれないが、実際はというと、背もたれや隣との仕切りが高くなっていて個室性は高いけれど、そこでやっていたことといえば、せいぜいが「手を握る」「抱き合う」「キス」…くらいであったようである。
しかも、カップル喫茶がスワップや他人の行為の覗き見といった、ある種の性的趣味を満足させることを目的として行くところであるのに対し、同伴喫茶は、何とか恋人同士が二人きりになり、多少なりともいちゃつける場所を求めて行く場所だったと考えられる。
そんなわけで、アベックが公園でいちゃついているといっても、それはせいぜいベンチに座って二人の世界に入って見つめあったり語り合ったり、手を握ったりするくらいのものであったろう。間違っても屋外で事に及んでいるわけではないのである。
こういった行為が「けしからぬ」ものでなくなったとき、「けしからぬ」ものである筈のアベック、麺子さんと汁夫さんも、少年サンデー紙面をさまよう必要がなくなったのだろう。
落ち着くべき場所を見つけたのだから。
80年代も半ばを過ぎれば、頑張って公園の木陰を探さなくても、スキー場の木の上にまで登らなくても、汁夫さんのアパートに行っちゃえばいいのである。ラブホテルに行ったって、誰にも後ろ指を差されることはない。
昭和は遠くになりにけり、かな?
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